イベント情報
伊勢志摩サミットが行われる26日頃、小間席での茶事を催します。
半年間少しずつ準備してきましたが、いよいよ早朝の掃除が始まりました。
「茶の湯は掃除に始まり掃除に終わる」とは先人の言ですが、やってみるとその通りで、点前作法や道具の開陳が本意ではないことが分かります。
茶の湯の面白さは茶事で結実し、茶事は少人数によるものに勝るものはないようです。
現代の茶会は人寄せの興行のようになり、茶事もともすれば稽古事のような味気の無い勉強会のようになっています。
神仏に献茶や供茶するために儀式化された全国有数の茶会も、なぜか一度参会すれば気が済み、年々興味は薄れています。
きっと見世物になっているからだと思います。
人に見せるためのパフォーマンスは、人はともかく自分自身の胸深く残るものはないようです。一過性のその場しのぎの演技と化すからでしょう。
茶事・茶会を催してきた私は、ある時ふと不安を覚え茶事が嫌になった時期がありました。原因は人に見せたい自分ばかりがいたせいでした。格好を付けたい自分がいたのです。自分は茶の湯をたしなんでいるぞ、とばかりの行動でした。
この姿勢が高慢さを生み、知らず自分自身にダメージを与えていたのでした。
その日に向けて、掃除に励み、茶道具を作り始めたのがその頃でした。心入れという一点を達成させたいが故の行動でした。
5年ほど前、秘かに茶を楽しんでいるご夫婦に出会いました。
大会社の役員を退いた後、茶道教授の奥さんと自邸の茶室で僅かな人を招き、茶の湯の面白さを堪能されていました。
互いに年に一度は小間の茶事にお招きする。これが何年か続いているご縁です。
互いに老境を迎え、静かに見えて激しい生への葛藤が小間席に漂います。
「茂林の茶事」では二人の客と命のやり取りができると思っています。
青苔に古きを宿す露地の石
写真: 樵隠庵露地